あたらしい日々のような終わり

 その人を初めて見たのはカメユーで買い物をした帰りで、整った顔立ちと上品で気だるげな雰囲気に胸がときめいたのを覚えている。それほど凝視したつもりはないけれど、彼は私の視線に気付くと、軽く会釈をした。そして、店の従業員出入り口の方へ向かっていくのが分かった。どうやら、ここの社員らしかった。
 素敵な人だわ、とは思ったものの、それだけだ。お近付きになりたいだとか、話がしてみたいなんて思うほどではない。けれど、どういうわけだか、不思議と印象に残る人だと思った。ただ見掛けただけ、会釈を交しただけなのに、その一瞬が脳の内側にこびり付いて離れないくらいには。


 
 その時何が起こったのか、私は今でもよく分からない。結論から言うと、私は死んだのだ。それだけが、たった一つ、確かなことだった。私の身体はバラバラに弾け、しかし塵一つも残らず、跡形もなく消え去った。いや、残ったものは、ある。私の左手。その手首から先だけを残して、私は間違いなく死んだ。
 私の手を丁寧に握る”その人”は、「それじゃ、帰ろうか」と笑った。表情からも声からも、ひどく嬉しそうなのが伝わってきた。かつて会釈をした、カメユーの社員が微笑っている。彼が私を殺したのだ。あの日かっこいいと見惚れた彼が、私を。
 死んでいるはずの私が、そんな光景を目にしているのはおかしなことだと思う。目も耳も、既に無いのに。そうっと、恐る恐る目線を下へおろす。不思議なことに、身体があるのだ。脚があるのだ。半透明の脚が。
 つまり、私は今、幽霊というやつなのだろう。幽霊には脚が無いなんて、とんだ嘘っぱちだ。生きている人間には、本当の事など確かめようがないのかもしれないけれど。死人に口なし。しかし、幽霊の私には口がある。「どうして、こんな」と思わず零れた呟きは、誰にも拾われず空に消えた。
 ふと、引っ張られるような感覚を覚える。なんだか怖くなって、必死で踏ん張ろうとしたけれど、無駄だった。幽霊である私の足は、地面にしっかりと掴まってはくれない。私は確かにここに居るのに、この地面さえも、まるで私を認識していないかのようだった。
 私はそのまま、不思議な力に引っ張られ続ける。あの男の傍から離れることは、どうやら許されないらしい。いや、違う。私の手だ。あの男が持っているのは、”私の手”なのだ。恐ろしいことに気付いてしまった。今の私は幽霊なのだから、無くなった手足がすべて揃っていたっておかしくはないはずなのに、私には左手首から先が存在していなかった。ひ、と声が漏れる。べつに、もう手なんか無くたって困りはしないのかもしれないが、気味の悪いことに変わりはない。もっとも、今の私の存在そのものが、かなり薄気味の悪いものではあるのだけれど。
 あの手を取り返さなくてはならない。半ば本能的に、そう思った。思ったからには、もう引っ張られてばかりもいられない。私は、自らあの男に付いていくことにした。駆け寄って、ぴったりと後ろについて歩き始める。これだけ近寄ってしまえば、わざわざ引き寄せられたりもしなくなった。おそらく、引っ張られているのではなくて、そもそも”離れることができない”のだ。
 それならば話は簡単だ。あの男が私の手を手放さない限り、私は彼の傍から離れたりしない。私の手をどこかへ収めるのか捨てるのか、どうするのかはわからないが、そうなったら私の勝ちだ。手を取り返して、それでやっと、成仏できるのかもしれない。
 彼は自宅へ着いたのか、ポケットから鍵を取り出した。随分と良い家に住んでいるらしい。私の家とは大違いだ。少し羨ましくもなるが、もう”生活”という言葉とも縁遠いのだから、どうだっていいことだ。”生”きて”活動”をすることはもう無い。幽霊には家なんか無くたっていいのだ。悲しいけれど、事実だった。
 
「さあ、今日から君もここで暮らすんだよ。少し休んだら、晩御飯を作ろうね」
 
 彼が、まるで恋人にそうするように、優しく私の手を撫でた。なんだかどきりとしてしまって、無いはずの左手をすっと引こうとする。当然、切り離された私の手はぴくりとも動かない。
 彼は私の指先に、軽く触れるようにキスをした。血なんか通っていないのに、顔があつい。本当におかしなことだ。私は彼に殺されたっていうのに。その上この男は、殺した私の手に対して、愛おしげに声なんか掛けている。優しく撫でて、キスをしている。そんな異常で恐ろしい光景を見て、どうして私の胸は高鳴っているのだろう。これが単なる恐怖から来るドキドキならば、それは正常な反応だけれど。そうであることを願う。
 
「さて、それじゃあぼくはシャワーを浴びて来るからね。良い子にしているんだよ。君がお風呂に入るのはその後だ。ぼくがきれいに洗ってあげるから、待ってなさい」
 
 彼は最後にもう一度キスを残して、バスルームらしき場所に消えていった。どうせ見えてなんかいないのに、彼が居なくなったことでようやく、緊張の糸が切れたような心地になる。彼が私に――私の手に話し掛け続けるせいで、まるで私がここに居ることを認識されて話し掛けられているような気分になってしまうのだ。はぁ、と吐き出した息が震えている。ばくばくと心拍のような音が聞こえて、幽霊も脈が早くなるんだなと、他人事のような感想を抱いた。
 恐ろしいのか、なにか興奮しているのか、何だかもうわからない。ただ、目の前には、あの男が置いていった私の手がある。震えながら、恐る恐る手を伸ばす。今しかない。”私の手”を取り戻すのだ。右手でそれを掴もうとして、少し考えてから、左手首をそちらへ伸ばした。切り取られたその手と、私の手首が、繋がるようにあてがってみる。幽霊の私は現実の何もかもに触れられないのだろうが、きっとこうするのが良いと直感的に思ったのだ。緊張感と、奇妙な高揚感とに震える。息が荒いのが、自分で分かる。何が起こるのだろうか。私の手を取り返したら。
 予想に反して、その手は何の反応も見せなかった。不思議な力で光り輝きもしないし、私の手首とピッタリ繋がって動き出したりもしない。当然か、と思いながらも落胆して、そっと手を――手首を離そうとする。しかし、思わず息を呑んだ。切り取られた左手から、たしかに私の手首を離したのに、その境目からまた手が見えるのだ。半透明の私の左手。つまり、霊体の私の手首から先にも、ここに置かれているのとまったく同じ手が生えている。まるで最初からここに居ましたよとでも言いたげに、自然にそこに収まっているのだ。私の全身と同じように、小さく微かに震えている。
 机の上に置かれた”私の手”に視線を移す。不思議な光景だ。私の手はここにあるのに、ここにもあって、……? 小説や漫画などで、幽体離脱をした人や、私と同じく死んで幽霊になった人が、自分の体を見下ろしているシーンを読んだことがある。身体が爆散した私は同じシチュエーションを味わうことは無かったが、この手を眺めている気持ちは、それに近いんじゃあないだろうか。

「誰だッ」
 
 声にはっとして、振り向く。夢中になっていて、彼がシャワーを終えて出てきたことに気付かなかったのだ。私は完全に血の気が引く感覚を味わって、それから少し遅れて疑問が浮かぶ。どうして彼は、「誰だ」なんて言うのだろう。ここに居る人間は彼だけで、彼が話しかける相手なんて、きっと私の手だけだろうに。まさか彼も、手に向かって誰だなんて言わないだろうし。
 自分に話し掛けられているわけがない。そう判断して、私は何も答えなかった。恐ろしくて声が出なかったのもある。彼は髪の先からぽたぽたと水滴を零しながら、ゆっくりとこちらへ向かってきた。そして、”私”と目が合う。ここにある手ではなく、私と。

「君は……殺したはずだ。何故ここに居るッ!? 生きていたか? まさか、そんなわけがないッ……わたしのキラー・クイーンに爆破されて、生きているワケが……!」
 
 取り乱した彼は、ブツブツと独り言のようにそう言いながら、私の存在を確かめるべきか、警戒して距離を保つべきなのか、迷っているようだった。

「……、どうして、見えているの……」
 
 思わず独り言が漏れて、はっと口元を押さえる。これじゃあ、私がこの男に話し掛けているみたいだ。自分を殺した男と会話をする勇気は、まだ無いのに。

「”見えて”いるだと……? 今、何と言った?」
 
 しかし、このまま黙ってやり過ごすことは、もう出来そうになかった。逃げようにも、私は”私の手”から離れることが出来ないし、何にも触れられない幽霊の私には、それを持って逃げることすら不可能だ。どうやら、今すぐに覚悟を決めるより他に無いようだった。

「なぜ見えているのかと……そう言ったんです。どうしてかしら。さっきまでは、見えていないようだったのに……」
「さっき? まさか……まさか君、ずっとそこに居たとでも……?」

 ええ、と躊躇いがちに頷くと、彼は右手で顔を覆って項垂れた。どう反応していいやら、分からない。こんな気の狂ったようなことをする人でも、手に話し掛けているところを見られるのは恥ずかしいのだろうか。それとも、何か他に、見られて困る理由があるのか。

「これは、参ったな」
「あの……?」
「わたしは幽霊の殺し方なんて知らない。君を始末しなければならないのに」
 
 幽霊の殺し方。不思議なことを言うものだ。死んでいる存在を殺せるわけがない。私はただ、成仏できずにここに居るだけ。あるいは、ここに居る”ような気がする”だけで、本当はやはり幽霊なんて存在していないのかもしれない。全部、死ぬ間際の私が走馬灯のように見ている長い夢なのかも。分からないが、どちらにせよ生きてなんかいないのだから、殺そうだなんて考えるのは無意味なことだった。
 
「……つまりあなたは、私がここに居ると困るんですね?」
「そうとも。話が早いね。君にはあれこれ見られ過ぎている。そもそも、君は一応わたしの被害者ということになるし。不本意ながらね。だが、簡単に出て行かれちゃあ、それはそれで困るよ。君が他の人間に、わたしの秘密を喋ったりなんかしたら――」
「いいえ。出来ません、それは」
 
 自分を殺した男と会話しているというのに、不思議と今はあまりその実感が無い。恐ろしさや震えなんかは、いつの間にか無くなっていた。
 
「出来ない、とは?」
「私のことは、誰にも見えませんし。それに、私はその手から離れることが出来ないみたいなんです。離れようとすると、勝手に引き寄せられるから」
 
 ふむ、と考えるように、男は顎に手をやった。伏せたまぶたから、長い睫毛が伸びている。そんなどうでもいいようなことばかりが目について、落ち着かない指先を組み合わせたり、離したりを繰り返す。どうやら私は、この男が自分の仇だからという理由で緊張しているわけではなさそうだった。
 
「誰にもだと? わたしには見えているじゃあないか。今、こうして」
 
 男は鼻で笑って、吐き捨てるように言った。
 
「だから、多分、あなただけなんです。私を殺したのはあなただから」
 
 切り取られた自分の左手と霊体の左手首を重ね合わせたから見えるようになった、なんてことまでは話さないことにした。私自身、何が起こっているのかよく分からなくて、受け入れがたいのだ。自分の身に起こっていることさえ信じられないのに、他人が聞いて信じるとも思えない。それに、今はとにかく、この人を落ち着ける必要があると感じた。これから私がどうするべきなのか、何ができるのかは分からないが、私が見えて話せるのは、どうせこの人しか居ないのだ。
 
「……おかしな話だ。”あの父親”だけじゃあなく、殺した女まで幽霊になるだと……? そんなに誰でも彼でも幽霊になって出てくるものか……?」
「……すみません。でも、私も困っていて。そうだ、私の手、あれを棄ててはくれませんか? 燃やすでも良いんですが。なんとなくですけど、そうしたら、きっと――」
「言われなくともそうするさ。”数日後”にね」
 
 手を取り返したら成仏できるというのは、所詮私の思い込みではある。でも、なんとなくそういう気がするのだ。時には「あなたは思い込みが激しいから」なんて言われることもあったが、私は今までの人生を、この”なんとなく”の直感に従って生きてきた。今は生きてこそいないものの、自分の指針は変わらない。
 しかし、彼は私の頼みを聞き入れてはくれないようだった。正確には、肯定はしたものの、今すぐにとはいかないらしい。
 
「……数日後?」
「この手も、だめになったら”手を切る”。大切な恋人とはいえ、腐敗が進めば臭うからね。それまでは、この子はわたしの彼女さ。わたしには歴代何人もの彼女が居るが、どの子も別れの時までちゃあんと大切にしてきた。このわたしが彼女を1日で捨てるような悪い男に見えるかい? ん?」
「…………」
 
 彼はテーブルに乗っていた私の手を恭しく取って、また撫でた。”この子”だなんて。それは私の手だ。黙って見つめる私の視線が気になったのか、彼は居心地悪そうにこちらへ視線を返した。
 
「……そうか、彼女は君で――いや、君が”彼女”ということになるのか? しかし、わたしが欲しいのはこの美しい手であって……」
「……あの。あなたが”私の手”を棄てるまで、何日か待たなくっちゃあならないってことは、分かりました。だけどそれまでの間、あなたが私の手を傍に置き続けるなら、私もここに居るしかないんです」
 
 この人はさっきから、手のことばかり、自分の都合ばかりで、結局私の話なんて聞いちゃあいない。おかげで全く話が進まないじゃあないか。なんだか苛々してきて、彼の持つ私の手をひったくるように右手を伸ばす。無論、触れられるわけはなくて、すうっと通り抜けてしまった。彼は眉を寄せ、私は唇を噛み締めた。少し黙ったあと、「それで?」と彼が続きを促した。一応話を聞く姿勢は見せるつもりらしい。少し満足して、口を開く。
 
「あなたの名前が知りたい」
「名前を?」
「ええ。だって、数日は一緒に過ごすことになるんですよね? 不便じゃあないですか」
「……話さなきゃいい」
 
 その返答に少しむっとして、彼の目を見る。ひどく面倒そうな顔をしている。けれど、私にはなんとなく分かる。この人はどうせ、話さずにはいられない人だ。じゃなきゃ、一人で物言わぬ手に話し掛けたりなんかしない。幽霊の私に、聞いてもいないことをべらべらと喋ったりなんかしない。誰にも秘密を知られたくないなんて言いながら、本当は誰かに話を聞いてほしい人なんじゃあないだろうか。この人は。
 それは、私にとって都合の良い、ただの思い込みかもしれないけれど。
 
「私、ゆめのといいます。あなたは?」
「……フゥ。どうやら、君はなかなか押しの強い性格をしているらしい」
 
 男は溜息とともに、苦笑した。笑ったのだ。苦い笑みとは言えども。私はそれを諦めと解釈して、視線で続きを促す。
 
「わたしの名前は吉良吉影。まあ短い間だが、生活をともにするわけだからな。いいか、わたしは平穏を望んでいる。植物のように穏やかな暮らしを……。君もそれを乱さないよう、心掛けてくれ」
 
 吉良吉影。ようやく名前を知ることが出来た。私の仇の名前。いや、そうではない。あの日見惚れた、美しい男性の名前だ。あの時は、名前さえ知らない、ただの他人だった。それを考えると、今のこの関係性のなんと奇妙なことだろう。殺し、殺され。生活をともにする。幽霊と、生きている人。おかしな関係だが、それで良かった。私はあの時、別に親しくなりたいだなんて思いはしなかったが、ただもう一度、一目でいいから彼を見たいと、そう思っていたのだ。幽霊にはなってしまったが、そんなことは些細な問題だった。