おやすみなさい

 決してそれはいびきではないのだが、静かすぎる空間に響く彼の寝息はゆめの神経を刺激し睡眠を妨げた。
 ──ああ、うるさい。心の中でそんな悪態をつきつつも彼女は柔らかい表情で苦笑した。柔らかい苦笑というのもおかしなものであるが、しかしその呆れたような半笑いには愛情のようなものが感じ取れたのだからそう表現する他にどうしようもない。

「……ディアボロさん、ディアボロさん」

 他の住人を起こさないよう細心の注意を払いながらも、彼の肩を揺さぶる。
 最近になってやっと心を乱されず落ち着いて安眠できるようになった彼は、その幸福を噛み締め、夜はいつもぐっすりと眠っていた。あまりに幸せそうに眠るのでゆめとしては彼を起こすのは忍びないと思えたくらいなのだが、そのせいで自分が眠れないのは困る。意を決して強めに揺り動かすと、彼の髪の毛がぱらりと落ちてその寝顔を顕にした。
 彼の寝顔は当然の如く非常に美しいが、普段と比べどこか幼さも垣間見える。それはきっと安心しきっているその表情が原因なのだろうとゆめは思った。

「……ディアボロさん、起きて」

 うっかり見とれていたことを自覚し、取り繕うように再び体を揺さぶって起こそうとする。
 うるさい寝息だ。大方、鼻が詰まってでもいるのだろう。そんな馬鹿なことを考えてみる。花粉の季節といえば春と言われるが、他の時期に花粉が飛ばないわけではないのだし、確か目も痒いとか言っていた記憶があるからおそらく花粉症だ。
 自分が居なければ彼は花粉症が原因で窒息死でもしていたことだろう。改めて意識してみれば自分は愛する男の命を握っているようなもので、一体どれだけ重い役目なのだと苦笑が零れる。自分が居なければ彼は死ぬのだ。放っておけないような頼りなさを感じるのはそこが原因なのだろうか。
 彼は一瞬眉をひそめて目をぎゅっと瞑ったかと思うと、うっすらと少しずつ目を開け、何度か瞬きをする。そうしてから視界にゆめを捉え、心持ち目元を柔らかくした。
 ああ、なにも命に限った話ではないのだ。彼の表情も、態度も、声音も、優しいその手つきも、すべては自分が影響でそうあるものなのだ。愛とはそういうものなのだ。彼は紛れもなく自分を愛しているのだ。

「……ん、どうした」

 若干掠れた声で小さく問う彼の額に口付ける。わざわざ起こしてしまった意味も既に失っていた。

「……やっぱり、なんでもないです。ごめんなさい、おやすみなさい」

 愛しい相手の前だと目尻が下がり口角が柔らかく上がるのは、どうやら自分も同じことらしい。彼を想う気持ちはいつだって全身に現れる。全身で愛を訴えかけているようなものだ。それこそ、表情も、態度も、声音も、彼に触れるこの手つきも。
 なんて愛おしい。自分のすべては彼の意のままに、彼のすべては自分の意のままに。
 好きだなんて言葉ではむしろ陳腐な程であると感じた。あの頃初めて自覚した時自分で思っていた以上に、自分は彼を愛しているのだと実感した。
 彼は額へのキスを目を閉じて享受し、それからそっとゆめの腕を引いた。

「……ゆめ」
「……突然引っ張るから、こけそうになりました」
「そのまま倒れ込んで来ればいい」
「……もう」

 くすくすと声を立てて、その手を引かれるまま彼のすぐ隣へ潜り込んだ。同じ布団で寝ればきっとそれだけで他の住人たちにからかわれるだろうに。しかし今そんなことはどうでもよかった。ゆめはただ彼を見つめ、彼もゆめ以外を視界に入れるつもりは毛頭ない。それは当然のことながら思考に入れるつもりだってほんの1mmもなかった。

「……ディアボロさん」
「Buona notte、ゆめ」

 彼が耳元で囁いたりなんかするものだから、かかる吐息がくすぐったくてたまらなかった。ゆめは笑って、彼の髪をなでた。
 今度こそ、ぐっすりと眠れそうな気がした。

「はい、おやすみなさい」

 コントか何かでも披露しているかのような馬鹿げた会話しかしなかったあのふたりが一体何故こうなってしまったのか。夜は寝るようにしろと棺桶に押し込まれたものの眠ることが出来ないでいたDIOは、誰にも聞こえないようにそっと「バカップルめ」と呟いた。それは自分自身にさえ聞こえないようなごく小さな呟きであった。