どこにもない心臓のゆき先

 吉良さんは料理が上手い。と言っても手際の良さ、作業としての意味合いであって、味の方がどうなのかは私には分からない。ただ、流れるような手付きであっという間に料理を完成させるその姿に、随分慣れているんだなとありきたりな感想を抱いた。
 
「さあ、出来たよ。いただいてしまおう」
 
 私に――ではなく、私の手に語り掛けながら、彼は料理を食卓へ運んだ。一人分の朝食だ。幽霊の私も、吉良さんの彼女である”私の手”も、食べることなんて出来ないのだから当然のことではある。しかし吉良さんとしては”一緒に食べる”気分でいるようで、彼が座る場所の向かい側に私の手を置いていた。私もそれに倣って、吉良さんの向かい側へ座ることにした。
 
「……いただきます」
 
 何となく手を合わせてみると、意外にも彼はフフと少し笑った。
 
「君は食べないじゃあないか」
「ええ、でも、気持ちだけ。美味しそうですし……」
 
 私が彼にとって厄介者であることは承知しているつもりだ。だから、こんなふうに笑ってもらえるとは思っていなかった。何を言っても無視されるのではないかとすら思っていたのだ。それこそ、誰にも見えない幽霊のように。
 吉良さんは私の発言にまた小さく笑って、今度は私の手に視線を戻した。また”彼女”との会話が始まる。私からすればどちらも同じ”私”なのだが、彼にとってはそうではないのだろう。私の手は彼の彼女だが、私はそうではない。
 
「君は、卵は好きかい? 好きだろう? 一緒に食べようか」
 
 何も返ってくることはないのに、彼は物言わぬ手に話し掛けるのが好きだ。なんだか見ていてそわそわしてしまう。彼の中では、私の手は何か返事をしているのだろうか。何と言っているのだろう。彼のイメージする”彼女”は、どんなふうに彼と話して、どんなふうに彼をときめかせるのか。分からないが、少なくともそれは私ではない。確かに私の手ではあるのに、彼の中のそれは私とは違うものらしい。奇妙な感覚だった。
 一緒に食べよう、と出来もしないことを嘯いた吉良さんは、”私の手”でスクランブルエッグをすくい取った。指先に卵の塊がくっついている。見慣れた自分の手に直接料理が乗っているのを見ると、つい、拭き取りたいような洗い流したいような、落ち着かない気持ちになってしまう。思わず凝視していると、彼は私のことなど視界に入っていないかのように、当然のごとく”それ”を口に含んだ。
 
「――まッ、待って!」
 
 黙っているつもりだったのに、耐えられなくなってしまった。無意識に静止の声が出てしまう。吉良さんは不愉快そうに眉根を寄せて、そのまま一度指先を口から出して、もう一度綺麗に舐め取ってから、”彼女”をその場に置いた。
 
「何だっていうんだ、食事中に」
「ご、ごめんなさい。いや、でも! だって、その……手が」
 
 人間が自分の体で一番見慣れている箇所は、手ではないだろうか。顔よりも足よりも、何よりも身近に視界に入る。だから、そこに自分の手があると、どうしたって反応してしまう。たとえ切り離されていても。いつも見ている私の手が、男の人に舐められているのに、黙って見ていられるわけがなかった。顔があつい、ような気がする。無いはずの血液が顔に集中して、無いはずの心臓がばくばくと音を立てている。まるで生きているみたいだ。死んでからもこんな思いをしなきゃあならないなんて、勘弁して欲しいと、そう思う。
 訝しげに眉を顰める吉良さんは、私が余程困ったような顔をしていたのか、こちらを一瞥して得心したように「ふむ」と呟いて頬杖をついた。
 
「そんなに恥ずかしいものなのか」
「そりゃあ、そうですよ。あなたにとっては彼女でも、それは私の手なんですから」
「感覚があるわけじゃあないんだろう?」
「そうですけど。でも、それは……」
 
 私が口の中でもごもごと弁解していると、彼は呆れた顔をした。かと思うと、また眉を寄せて、苦々しげな表情に変わる。これは何の表情だろう。
 
「……何か?」
「……いいや? 何でもないさ」
 
 何でもないわけがない。その証拠に、さっきまでのように上機嫌に”彼女”と会話することもなく、ただ黙々と食べるスピードを早めている。このまま黙っていられると、私としても後味が悪い。彼の楽しみを邪魔した私にも非はあるが、そもそも彼が本人の目の前で手を舐めたり口に含んだりするのがいけないのだ。幽霊だからといって、居ないものとして扱われるのは癪だ。
 じっと見つめてみる。生きた人間に見られるのと違って、気配というか、見られている感覚は薄いかもしれないが。だとしても、それ以外に出来ることもない。私には食べる料理も無いのだし、あまりに手持ち無沙汰だった。しばらく視線を送り続けていると、食事を終えた彼は降参したように「熱烈な視線だ」と呟いた。
 
「どうかしたんですか?」
「こちらの台詞だがね」
「いいえ、私ではなくて。さっき吉良さんが、変な顔をしたから」
「わたしの顔が変だとでも? これでも女性社員にはモテるんだ、嬉しくも何ともないが」
「どうして誤魔化すんですか」
 
 思わずむっとして詰め寄ると、彼は小さく息をついて、額に手をやった。参った、のポーズだ。
 
「……しつこいな、君は。忘れたのか? わたしは君を殺した男だぞ」
「だって、もう死んでますし、これ以上怖いことなんてないですもの」
 
 言いながら気が付いた。幽霊が恐ろしいのは、失うものが無いからだ。なんにも持たない幽霊の私は、自分を殺した男に強気に出たって怖くはない。幽霊を殺すことなんて、どんな殺人鬼にも出来ないことだ。出来る人間がどこかに居たとしても、少なくとも彼はそうじゃあない。自分でそう言ったのだ。
 
「怖いことなんてない? わたしに手を舐められるのは嫌がるのに?」
「それは――待って。話が脱線したじゃあないですか」
「どうして誤魔化すんだ?」
「……意趣返しのつもりですか?」
 
 赤くなっているであろう頬を両手で隠しながら睨み付けると、彼は愉快そうに目を細めて笑った。あっという間に形勢逆転されてしまったことを悔しく思う。それと同時に、彼の様子にどきりとした。これじゃあ、まるで、私との会話を楽しんでいるみたいだ。そんなはずはないのに。
 
「――少し、やりにくいなと思っただけさ。”彼女”と話しているつもりでも、すぐ君が反応するから……いつの間にか、君に話し掛けている気分になってしまう」
 
 唐突に、彼が白状した。なんだかどぎまぎしてしまって、どう答えればいいのか分からなくなった。
 
「……どういう、意味ですか?」
 
 私がもう少し会話の上手な女だったら、さっきのような楽しげな表情を、もっと見ることが出来たのだろうか。そんな”もしも”に意味は無いし、私は肝心なところで不器用だ。鈍感な女のふりをして、聞き返してしまった。こういう時こそ、詰め寄れば良かったのだ。「それなら、”彼女”と私を分けないで、もっと私に話し掛けてくれたらいいじゃあないですか」って。その手は私の手なんだから、って。
 
「言葉通り」
 
 吉良さんはそれだけ言って、スーツのネクタイを締める。どうやらもう、出勤の時間が近いらしい。随分と余裕を持って起きているのは、朝御飯を彼女とゆっくり食べるためかしら、なんてどうでもいいことを考える。何にせよ、私には関係の無いことだ。吉良さんは、通勤鞄を手に持って、それから”私の手”を大事そうに内ポケットに仕舞い込んだ。
 
「あの、待ってください」
「…………、何だい」
「手を持って行かれたら、私も付いていくことになってしまいますけれど……」
 
 手に憑いた幽霊の私は、その手から離れられない。そんなことすら、彼は失念していたのだろうか。あるいは、焦って頭から抜け落ちていたのか。後者だとしたら、この人にもそういう可愛らしいところが――抜けたところがあるんだなと、意外に思う。周囲に何も悟らせない完璧な殺人鬼のように見えていたけれど、もしかすると、どこかでは詰めの甘いところがあるのかもしれない。私を殺すことにおいては、彼はなんのヘマもやらかさなかったけれど。
 
「……やむを得まい」
 
 苦虫を噛み潰したように、彼はぐしゃぐしゃの顰めっ面を見せた。私はふふ、と思わず笑ってしまった。だって、「やりにくい」なんて言っておきながら、彼には手を置いていく選択肢なんて無かったのだ。


 
 職場での吉良さんは、家に居る時より更に大人しかった。物腰から言えば家での吉良さんも大人しい方ではあるのだろうが、手に話し掛けるのも、手を舐めるのも、普通じゃあない。それはどう見たって奇行だし、奇行に走る人間のことを大人しいとは言わない。そもそも、殺人鬼なのだ。この人は。彼を普通の基準に当てはめたって、意味はないだろう。普通の世の中から外れてしまった人なのだ。それ自体は、よくあることだが。ある意味では、幽霊となった私だって同じことだ。
 
「吉良さん、良かったらランチご一緒しませんか?」
「この近くに、良い感じのお店が出来てるのを見つけたんです! 少し分かりにくいところにあるので、あたしたちが案内しますよ」
 
 昼休みになると、女性社員たちが吉良さんを取り囲み、親しげに声を掛け始めた。「女性社員にモテる」という話は本当だったらしい。職場での彼は目立たず平凡に過ごしているように見えるのに、それでもこれほど好意を寄せられていることに感心する。
 とはいえ、彼が魅力的であるということは、私にだって分かる。私だって、初めて見たあの日から、彼の姿をずっと目の奥に留めて生きてきたのだ。だから、死んでしまった今も、こんなところにとどまっている。――いや、そうだっただろうか? 私がここに居る理由は、何だっただろう。
 
「すまないが、先約があってね。そのお店は、また今度教えてもらおうかな」
 
 意外にも、彼は女性社員たちの誘いを断るつもりらしい。そういえば、女性にモテることを、彼は「嬉しくとなんともない」と言っていた。ということは、やはり彼は手そのものにしか興味がないのかもしれない。だとしたら――私は、喜びにも似たむずがゆい気持ちになってしまう。だって彼が今お付き合いをしているのは、私の手なのだ。他でもない私の。……手だけとはいえ。
 残念そうに肩を落とす女性社員たちと二言三言会話を交わしてから、吉良さんは優雅な足取りでオフィスを出た。先約があると言っていたけれど、誰とランチをする予定なのだろう。他の同僚と約束しているのかと思ったが、特に誰と連立って歩くでもなく、彼は一人で出てきてしまった。
 
「……まったく、モテたって良いことはないな。毎回断るのに、なぜ何度も誘ってくるんだろうな? わたしは君と食べるっていうのに」
「…………」
 
 彼は人気の少ない道に出ると、私の手を白昼堂々取り出して、するりと撫でた。先約とは、”彼女”のことか。人目がないとはいえ、殺人の証拠とも言えるこの手を臆面もなく晒してみせる彼の精神は、一体どうなっているのだろう。私は思わず眉を寄せた。すると、まるで鏡のように、吉良さんの眉間にも皺が出来る。
 
「……君。無視だなんてひどいじゃあないか。まさか、自分を殺した男とは会話もしたくないなんて言わないだろうな? 家ではあれだけ話しておいて、今更そんなワケは無いだろう?」
「――……え?」
「……だから、君に言っているんだよ」
 
 そういえば、彼は”彼女”と話す時はいつも自分のことを「ぼく」と言うはずなのに、今はたしか、「わたし」と言った。ということは――彼女に話しかけていたのではなかったのだ。数瞬遅れて理解が追い付くと、心臓が早鐘を打つ。もちろん、そんな気がするだけだ。幽霊に心臓があったとしても、器官としての働きなんてしていないはずなのだ。
 だから、これはつまり、私は照れているのだ。
 
「な……なんで? どうして私と、なんですか? 手が彼女なのに……?」
「言っただろう」
 
 何を、と問おうとして、けれど声にならなかった。私と視線を合わせない吉良さんの、ぎゅっと眉を寄せた顰めっ面の、落ち着かない視線の動きに気付いてしまったから。
 どうやら、照れているのは私だけではないらしい。その理由はそれぞれ違う気もするが、多分、彼は彼らしくないことをしている自覚があって、それが恥ずかしいのだ。それに気付いたからには、少し意地悪をしてしまいたくなる。
 
「――……何をですか?」
「……、まさか覚えていないとは、言わないよな?」
「さあ……何の話をしているのか、言ってくれなきゃ分かりません」
 
 覚えていないわけがない。彼は今朝、確かに、「彼女と話しているつもりが君と話している気分になる」と、そんなことを言ったのだ。だから、彼は”彼女と話す代わりに”、最初から私に向かって話し掛けた。話し掛ければ返事が返ってくると思って、そうしたのだろう。手に話し掛けて返事があるのはおかしなことだけれど、幽霊に話し掛けて返事があるのはそれほど変なことではない。どのみち私が反応してしまうのなら、彼は幽霊に話し掛ける方を取ったのだ。
 可笑しくなって、つい笑ってしまった。口元を押さえるが、どうしても零れてしまう。
 
「おい君、何を笑っているんだ」
「ふふ、いいえ。何にも。早くご飯にしましょう、吉良さん」
 
 浮かれた足取りで、吉良さんより前に出て歩き始める。それにしても、”浮かれた足取り”とは言い得て妙だ。私の足は地面に身体を支えてなんか居ないし、漂っているだけのようなものなのだから、実際に”浮いた足取り”と言ってもいい。
 何もかもが可笑しくて、笑えて仕様が無かった。胸の内側をくすぐられているみたいだ。私は死んだのに、殺されたのに、どうしてこんなに愉快で晴れやかな気分になれるのだろう。
 目の前のこの人に、確かに殺されたのに。

「だから、”君が”食べるわけじゃあないだろう? ”君と”食べるってだけさ。あくまで”わたしが”、ね」
「どうしてそんな、細かいことにこだわるんですか」
「大事なことじゃあないか。つまり……君だけ先に行ったって意味はないよって言ってるんだ。何を浮かれているんだか知らないが」

 どきりとして足を止めた。浮かれている自覚はあれど、彼の方から指摘されてしまうと落ち着かない気持ちになる。私の表情が変わったのを目敏く見抜いた吉良さんは、勝ち誇ったようににやりと口の端を吊り上げた。まるで追い詰められているような気分だ。恥ずかしさを伴う奇妙な緊張感で、どきどきして落ち着かない。

「――女性社員にモテるんだって言っただろう? こうしてランチに誘われるのも毎日さ。もしや君が嫉妬していたんじゃあないかと思ってね」
「なッ、何を言ってるん、ですか。私は、吉良さんの恋人でも何でも……ないのに」
「ほら、やっぱり」
「な……」

 吉良さんは可笑しそうに笑って、私の手に自分の手を重ね合わせるようにして撫でた。慈しむような手付きだ。まるで恋人にそうするような。いや、実際に恋人なのだ。この手は、手だけは、彼の恋人だ。
 視線の置き場に困って、少し俯いた。アスファルトの地面が見える。確かにそこに立っているつもりなのに触れられない、生きている頃より遠く感じる地面。距離は変わらないのに、存在が遠くなってしまった。吉良さんという人もそうだ。生前は関われなかったこの人と、確かに傍で話しているのに、彼の恋人になれるのは幽霊の私ではなくて、実体を持つこの手だけなのだ。
 私は、彼の恋人になりたいのだろうか。自分を殺した男の恋人になりたいだなんて馬鹿げている。あるいは、狂っている。だけど、彼にとって私のような女を殺すことは、憎悪でも嫌悪でもないはずだ。彼は間違いなく、慈しむために私を殺した。私の手を恋人にするために。それなら、この殺しは、ある種の愛情表現のようなものだろう。だから、私だってこの人を好きでもいいはずだ。彼が私の手だけしか愛していなかったとしても、それでも、その手は私の一部なのだ。愛するために殺したのなら、殺されてから愛するのだって、間違いじゃあないと思いたい。
 ふいに、彼が俯く私の瞳をのぞき込んだ。

「悪いが、今は君の手がわたしの”彼女”なんだ。君がどう思っていようとね。……だから、君のことはわたしの好きなようにさせてもらうよ」
「……?」
「例えば、他の女に誘われようが食事を共にする相手は君だし……」

 これは、どっちに言っているのだろう。君、と呼ばれて心臓が跳ねたけれど、私じゃあなくて手の方かもしれない。困惑したまま吉良さんの瞳を見つめると、彼は一瞬言葉に詰まって、それから嘆息した。

「……ゆめの」

 溜息混じりに吐き出されたのは、私の名前だった。初めて、名前を呼んでくれた。あの時名乗ったのに、彼はずっと「君」とか「なあ」とかばかりで、今まで一度も名前で呼んでくれなかったのだ。だから、私の名乗った名前なんて覚えていないと思っていた。そもそも手にしか興味がないのなら、私の名前など忘れていても当然だろうという気がしていたのだ。

「き、吉良さん、あの……?」
「つまりだ。私の彼女はこの手だが、彼女に話し掛けるってことは、結局は君に話し掛けることになるだろう? だからといって冷たい態度を取るのは、せっかく恋人を手に入れたってのに勿体無いじゃあないか。わたしはせっかくの美しい恋人を、最大限に可愛がってやりたいだけさ」

 どうやら、私自身は依然として彼の恋人でも何でもないが、恋人である手の付属物として大切にしてくれるということらしい。手とデートをするために、私とデートをする。彼が愛しているのは、やっぱり手だけなのだ。だというのに、私は――浅ましくも、彼の言葉に喜んでしまっていることを自覚した。
 彼の仮初の恋人でいられることが、私はそれだけで嬉しいのだ。