不意をつく

「おはようございます、……お父さん」

彼の朝は早い。そういう習慣が身に付いているのだろう。仕事柄常に生活を監視されてストレスも溜まっているだろうし、この家にいる間はゆっくり寝ていれば良いものを。
私より先にリビングへ降りてコーヒーを飲んでいた彼に声をかける。
真顔でカップを落とした。

「……割れてますよ」

「…………お前は」

焦りが表情に表れていて、面白い。いたずらが成功した子供のような気持になる。もしかすると、「ような」ではなくて、まさにそのものかもしれない。
とは言っても私だってかなりの勇気を振り絞ったのだ。
何故突然こんなことをするに至ったのかというとまぁきっかけは大したことではないのだが。
ただ、ずるいと思ったのである。彼ばかりが私の反応を面白がって態度や反応を変えてみたりするのが、たまらなくずるいと思ったのである。
本当は「おはようパパ」と昔のようににっこり笑って挨拶してみようとも思ったのだがそれにはさすがに気恥ずかしさの方が勝った。そのためパパ呼びも砕けた口調も、ついでに明るい笑顔も捨て、最終的にあの台詞になったのだ。
もう少し頑張って「父さん」くらい言えば良かったかとも思ったが、彼の反応からしてこれで充分だったのだろう。

「……あっ、大丈夫です。私が片付けますよ」

「すまない、また新しいカップを用意しておこう」

「要りませんよ、余ってますから。足、刺さらないように気をつけてくださいね」

欠片を拾い集めて、小さなものはガムテープで取る。彼は「わたしがやろう」と言ったが大統領に怪我をさせるわけにはいかない。
そう言うと彼はやはり不機嫌そうに顔を顰めたがもうそれには慣れてしまった。それに、今の彼はあまりに心に余裕が無く落ち着きが無いため何を言っても無駄なのだ。
まさかここまで調子を狂わせるとは思っていなかった。なんだか少し可笑しく感じる。

「……結芽よ」

「はい?」

「……父をからかうのはやめたまえ」

「……もう言いませんし言う気も無いですよ」

はぁぁ、と長い溜息を洩らす彼を尻目に、私はキッチンへ向かいカップを片付ける。

「大統領、今日はあちらへ戻りますよね」

「……そうだな、不本意ながら」

「不本意でも何でも、あなたのお仕事は普通とは違うんですから。ちゃんとしないと」

「ああ、分かっている」

不本意、とは言うが彼は自分の仕事に誇りを持っているし、愛国心は人一倍強い。仕事自体が嫌なわけではないのだろう。
彼は椅子を引いて立ち上がり、黙って私のいるキッチンを見つめた。

「────どうしました?」

「お前も来るか」

あまりに唐突で、思わず言葉を失う。しかしすぐにふぅ、と息を吐いて微笑に成りきれていない苦笑を零した。

「冗談も大概にして下さいよ」

「わたしはいつでも本気だ」

彼がそう言うのならそうなのだろう。そうなのだろうけれども、しかし認めるわけにはいかない。
「そうですか」なんて適当にあしらうと、彼は私のすぐ目の前に立った。

「お前も来れば良い。わたしと共に暮らそう」

「……突然、何を」

「散々放置して何を今更、と思うのかもしれない。しかしだからこそだ。寂しい思いをさせてすまなかった。こちらへ来れば何一つ不自由はさせない」

答えはもちろん決まっていたのだが、視線は揺れた。息が詰まる。長い息を吐き出して、今度こそにっこりと笑った。

「私の家は、ここですよ。ここにはSPとかそういうの、来ないようにしているんでしょう。……よく分かりませんけれど。普通なら大統領といえどそんなこと出来ないのに。そこまで我儘言っておいて突然無かったことになんて出来ないでしょう。あなたが落ち着くための場所を作る意味でも、ここは必要ですよ」

彼もまた同じように、諦めたように嘆息して、再び笑んだ。

「お前なら、そう言うだろうな」

彼は二年半振りに会った娘が他人行儀なのが気に入らないのだ。分かっている、そんなことは。
彼と共に帰るのも悪くなかったかもしれない。一緒に過ごせばまた家族らしくなれるのかもしれない。
しかしそれでも、私はこの家に居たいのだ。彼の用意してくれた我が家に居たいのだ。あちらは、あまりに息苦しい。それはきっとわたしだけではなく、父にとっても。私は、私たち親子の憩いの場を、まだ守っていたい。

「────じゃあ、行ってくる」

「はい、行ってらっしゃい大統領」

「……別れの時くらい父と呼べ」

互いに苦笑した。

「嫌ですよ。一生の別れじゃあないんですから」

「他人行儀過ぎるぞ。また長い間帰ってこないかもしれないじゃあないか」

そんなことは。何度も言うように、そんなことは私が一番よく分かっている────つもりなのだ。

「うるさいです。……行ってらっしゃいお父さん」

半ば無理矢理に押し出して、扉を閉める。
閉じた扉の向こうから、私の名を呼ぶ父の声が聞こえた。

Fin.