眼差しの温度

 私の勤めるリストランテには、ギャングの客もよく訪れた。この店だけの話ではなくて、この辺りのリストランテやカッフェはどこもそうらしい。この街に来て、ここで働き始めてすぐの頃には、私も随分と怯えたものだ。いや、今でも、恐ろしいとは思う。しかし、意外にも彼らは騒ぎを起こすことは無かった。ただ食事をするだけなのだ。時折物騒な会話が耳に入りはしたが、肝心なところはいつも聞こえなかったため、いつしかそれほど気にならなくなっていた。それは、彼らがわざとそうしているのだろう。外部に簡単に情報を洩らして良いような仕事じゃあないってことは、無関係の私にだって分かる。
 ギャングといえどもただの人だ。腹が減れば食事くらいする。それならば、彼らは皆等しく”お客様”で、私はウェイトレスとして、食事を運ぶだけのことだ。ほんの僅かな怯えは、内に隠して。

「お待たせいたしました」

 運んできたパスタを静かにテーブルに置くと、いつもの彼は満足げに一つ頷いた。彼の名はブチャラティというらしい。いや、本当にそういう名前なのかは知らない。ただ、仲間からはそう呼ばれていた。私は彼らとプライベートなやり取りをした事は無いから、詳しいことは分からない。私達の間に交わされるのは、従業員と客との、お決まりの定型文だけだった。
 彼は、綺麗に食べる人だった。私はそれが気に入っているのだ。その所作は、目を引くほどに美しいというわけじゃあないけれど、無駄がなく洗練されていて、自然だった。つい視線がその手元を追い掛けたがるのを理性で制して、一礼し、その場を離れようと踵を返す。

「――美味いな。今日は一段と」

 彼が静かにそう言った。思わず振り返ってしまい、はっとする。いけない、きっと近くにいるのであろう仲間に話し掛けているだけなのに、たかだかウェイトレスが反応してしまうなんて。
 しかし、振り向いた私と彼の目が合った。彼は初めから、こちらへ話し掛けていたのだ。美味しい料理のおかげか、他人へ話し掛けるときの彼の物腰がそうなのか、僅かに微笑んだ顔をしている。凛々しい眉がやや上がっていて、いつもより柔らかい表情に見えた。何故だか緊張してしまって、思わず視線を伏せる。

「その、……新鮮な良い食材が手に入ったと、シェフが。今日は一段と上機嫌でしたから」
「そうか。よろしく伝えておいてくれ」
「え、ええ。必ず」

 定型文でない会話は、初めてのことだった。突然のイレギュラーに脳がパニックを起こしている。落ち着かない指先が、配膳用のトレンチを僅かに持ち上げたり下ろしたり、意味のない動きを繰り返す。緊張しているのだ。ギャングと会話をするなんて初めてだから、それだけ。

「実はオレは、この店を気に入っているんだ」

 終わるものと思った会話が続き、いよいよ限界だとでも言いたげに私の心臓がばくんと音を立てた。しかし、不自然に思われてはいけない。不審な態度を取っていると思われてしまったら、そっちのほうが余程恥ずかしい。悟られないよう小さく息を吸って、吐く。ウェイトレスらしく、口角を上げて微笑む。

「まあ。それは光栄です。シェフにもそのように伝えますね」
「ああ、いや。料理も勿論だが……」

 苦笑した彼は、店内を見渡すように、視線を一周させた。私の方へ視線が戻ってくる。

「――落ち着くんだ。ここに居ると」
「……、それは――良かったです」

 何と返すべきなのだろう。僅かに言葉に詰まって、誤魔化すように無理矢理言葉を紡いだせいで、薄っぺらな返答になってしまった気がする。やや顔があつくて、そっと右手で扇いだ。彼が小さく笑ったように見えた。

「店内も落ち着いていて雰囲気が良いし、ウェイトレスも」
「わ――私どもが……何か?」
「ふ、……いや。怖いだろう、ギャングの客なんて」

 図星をつかれて、視線が泳ぐ。一体彼はどういうつもりで、こんなふうに話し掛けたりしているのだろう。シェフの料理を褒めるのは、わかる。けれど、これは、こんなのは、”私個人”と話す意味は無いんじゃあないだろうか。

「い、いいえ。どんな方でも、お食事をしに来てくださっている限り、お客様ですもの」

 彼は眉を下げて、小さく息をついた。呆れられてしまったのかと身を固くしたが、口元がまだ微笑んでいることから、そうではないと気付く。いや、呆れているわけではないにしろ、彼も気付いただろう。慣れてきたとはいえ、怖くないと言ったらそれは嘘だ。ギャングなのだから、一般人の嘘くらい簡単に見抜けるはず。ましてや、こんなに緊張してしまっている私の態度を見れば、それはきっと瞭然だったに違いない。それでも何も指摘しないことが、彼の優しさを物語っていた。

「食事をしに来る限り、か」
「…………」
「ウェイトレスさん、君は良い人だ。ここは良い店だし、従業員たちも感じがいい。本当に気に入っているんだ」
「……? どうも――」
「だから、折り入って相談なんだが」

 ふと、彼の手がこちらへ伸びる。一瞬何が起きたのかわからず、頭が混乱した。いや、”何が起きたのか”分かると、ますますパニックになってしまった。彼に腕を引き寄せられている。彼のもう一方の手が私の背中に回されているのを、肌で感じた。私の耳元に、すぐそばに、彼の顔がある。艷やかで羨ましいと密かに見とれたことのある彼の黒髪が、私の頬を擽る。思わず悲鳴を上げそうになって、すんでのところで堪えた。だって、彼は”相談”があると言ったのだ。そんな言葉で油断させてナンパを仕掛けていると考えることも出来なくはないけれど、きっと彼はそんなんじゃあない。私はいつも、彼の真剣な顔を見ている。仲間と仕事の話をする時の、あの鋭い目を。

「――すまない。そのまま、何も言わずに聞いてくれ」
「…………」

 やっぱり、あの目だ。射抜くように真っ直ぐで、けれどギャングの肩書きにはどこか不釣り合いな澄んだ瞳。つまり、これは彼の仕事の話なのだ。一体うちの店に何があるというのか、ドキドキして息が詰まりそうになる。もはや、恐ろしいのか、近い距離で感じる彼の息遣いだとか体温だとかを意識してしまっているのか、私には判別がつかなかった。どちらにせよ、緊張感のあることに間違いはない。

「3日後だ。よそのギャングが、ここで麻薬の取引をする」
「……!」

 思わず、はっとして彼の瞳を見た。僅かに同情の色を滲ませた瞳は、すぐに意志の強いぎらりとした目付きに変わる。何故だかそれに安心感のようなものを覚えて、私は奇妙な気持ちになった。

「オレは、それを、止めたい」

 一音一音を区切るように、小声ながらもはっきりと彼はそう言った。彼が私の腕を握るその手に、やや力が篭ったようにも思う。私はなんだか胸があつくなって、心に込み上げるものを感じた。何も言わぬまま、神妙な面持ちで頷く。

「だから……食事だけではない目的でここへ来ることになってしまうが、いいだろうか?」

 こんな時だっていうのに、思わず頬が緩みそうになる。なんて律儀な人なのだろう。「食事をしに来るのならお客様だ」と、確かに私が言ったのだけれど。この店を、この町を守ろうという人が、わざわざそんな私の一言に対して、気遣いの問い掛けをしてくれるだなんて。
 首肯すると、彼は安心したように小さく息をついて微笑った。そして、もう一度「すまない」と呟いて、私の腕を離した。彼の手に支えられていた背中に、すっと風が通るような感覚を覚える。まだ手のひらの熱がそこに残っているかのようだった。

「それじゃあ……失礼致します。ごゆっくりどうぞ」

 話は終わった。今度こそ、一礼して、その場を去ろうと足を踏み出す。「ああ、待ってくれ」と彼の声が私を引き留めた。まだ何かあるのだろうかと疑問に思いつつも、振り返る。

「――名前を」
「え?」

 聞き間違いかと、自分の耳を疑った。だって、それは。”仕事”には必要のないことじゃあないか。彼が私に接触したのは仕事のためだったのだと、それが当然だと、納得しかけていたところなのに。
 彼が気まずそうに頬を掻く。こんな顔もするのだと、初めて知った。

「オレは……オレの名は、ブチャラティという。ブローノ・ブチャラティ」
「ブローノ……ブチャラティ」

 口の中で呟いてみる。ブチャラティと呼ばれていた彼にも、当然だが、ファーストネームがあるのだ。普段は呼ばれない彼のファーストネーム。こうして自ら名乗られなければ、知ることはきっと無かっただろう。

「私は――私は、ナマエといいます」

 高鳴る心臓の音を少しでも抑えたくて、胸元に手を添えた。ただの自己紹介のポーズだと、そう思ってくれたらいい。

「……ナマエ」
「はい」

 彼の唇が私の名前を紡ぐのが、なんだか不思議な感じがした。少し前まで、互いに存在だけを知っていて、まともに会話もしたことがなかったのに。けれど、私の名を呼ぶ彼の声は、耳に心地良かった。

「さっき、食事をしに来ている限りはお客様だと、そう言っただろう?」
「ええ……」
「悪いが、オレも、そうじゃあないところがあったんだ」

 意味を測りかねて、彼の顔を見上げた。困ったような、言葉に迷うような、眉を寄せた複雑な顔をしている。

「……と、いうのは?」

 私が問うと、彼は一度ぎゅっと唇を噛んだ。かと思うと、するりと、次の言葉が飛び出す。

「君と。話してみたいと思っていた」
「……、あ……え?」
「いや、料理が美味いのは事実だ。店を気に入っているのも。ただ、少しの下心もあったというだけで」

 先程までの躊躇っていた様子が嘘のように、彼は平然とそんなことを言う。”下心”だなんて、何を言っているのだろう。思わず目を伏せる。頭が回らない。彼がどういうつもりなのか、何が目的なのか、何が言いたいのか、私は何一つ掴めないままだ。足元がふわふわしているような、不思議な感覚。

「……何度も呼び止めてすまなかった。君にも仕事があるというのに。もう戻ってもらって構わない」

 私の沈黙をどう捉えたのか、彼は気遣わしげにそう言った。息が詰まりそうだ。何も言わない私に、彼は少し傷付いたのかもしれない。そうだとしたら――そうだとしたら、彼は本当に、私と話がしたかったのだ。なんだかたまらない気持ちになって、制服のスカートをぎゅっと握りしめる。彼が、あのブチャラティが私と会話することを夢見て通っていたのだと思うと、胸が苦しくなった。私がこっそりと盗み見ていたあの瞬間も、緊張に身を強張らせながら料理を運んだあの時も、彼は何かを期待していたのだろうか? 心臓がばくばくと音を立てている。こんなのはもはや、手を添えたくらいでは抑えられそうにない。

「私――私も、同じなんです」

 ぽつりと、呟くように言葉が零れ落ちた。ほとんど無意識だった。

「え?」
「私も――あなたのこと、見てました。ずっと。食べ方が綺麗だから、どんな人だろうって」

 言ってしまった後ではっとして、顔を上げる。彼は小さく口を開けて、僅かに目を丸くして、何も言えず固まっているような様子だった。その意外な表情に、却って私の羞恥が増した。いつもみたいにきりりとした顔で、「そうか」なんて返してくれたほうが、まだ恥ずかしくなかっただろう。自分の頬に手をやると、指先の冷たさが心地良くて、どれだけ顔に熱が集まっているかがよく分かった。そのまま手をずらして、口元を覆う。なんだかもう、恥ずかしくて、消えてしまいたいような気持ちだった。

「で、では……失礼します」

 言うが早いか、私はさっさと踵を返して、早歩きで店の裏へ回った。彼の視界に映っていることが、それだけで耐えられないほど恥ずかしかった。このままでは、他のお客様の前にも出られない。一度精神を整えようと、深呼吸をする。けれど、深く息を吸ったところで、ふと、あの時引き寄せられた瞬間の彼の匂いと息遣いとが蘇ってきて、その場にへたり込んでしまった。これから先、彼が店に来るたびに、どんな顔で、どんな態度を取ればいいのだろう。それを考えただけで、心臓が早鐘を打つ。
 ホールに戻れるようになるまで、もうしばらく時間が掛かりそうだった。

2022.10.14