たったの一週間のうちに、恋人に浮気されて、会社を首になって、火事で家を無くして、ほとんど一文無しになって。これほど不幸な人間が、この世に実在していたのか。他人事のようにそんなことを思った。
しかし紛れもなくこれは自分の身に降り掛かった出来事であり、目を擦ってみても見開いてみてもどうやったってそこに家はない。金もない。ついでに言えば仕事もない。仕事を首になって帰ってきてみれば家が燃えていたのだからまあなんとも奇妙なものである。
さて、どうしたものか。ゆめは考える。こんなに不幸な奴はもしかして世界中で自分だけなんじゃあないのかしらなんて悲劇のヒロインごっこを脳内で繰り広げてみたりもするが、しかしそんなのはただちょっと笑えるだけである。そして笑っている場合ではない。
「う、ぐ……ハッ……お、おい……貴様……オレのそばに近寄る、な……」
割と不幸そうな人間が、すぐそこに落ちていた。
「えっ生きてたんですか。死体かと思ってました」
「死んだぞ……おまえが帰ってくるより先に……」
「あっ……えっ? それは、どういう」
「火事に他人を巻き込むんじゃあない……ただでさえ死に続けているというのに何故、何故こんな」
彼はつらそうに肩で息をしながらこちらを強く睨みつける。
何が何だか知らないがこいつは自分より不幸そうだとゆめは思った。そして非常に───なんとも不謹慎なことに彼女はなんだか少しわくわくしてき始めた。こいつぁやばいぜ。面白そうだ。本能がそう告げていた。
「死に続けてるんですか。大変そうですね」
「馬鹿に……しているのか、おい」
「実はあたしも今結構死にそうなんですよね」
「……おい」
「家と金がないんですよ。あ、仕事もないです。野垂れ死ぬのもそれほど嫌ってわけじゃあないんですけどそれもなんかまともな死に方じゃあないですし、生き延びるとするならこれからどうやって生きていこうかなって考えているところです」
彼は訝しげにゆめを見つめた。──こいつ、イカレてやがる。そんな目つきで。
「…………おまえ」
「死体さん、おうちはどこです? 歩けますか? 連れて行ってあげますよ、どうせ暇ですし。なんたってこれからは二十四時間いつでも暇なので」
「…………。アパートだ。荒木荘と書いてあるからすぐに分かる」
「あ、あー……荒木荘ってあれでしょう、あの騒がしいとこでしょう。ご近所さんからの苦情が耐えないっていう」
「間違いなくそこだ。そこに住んでいる」
ゆめが家まで送って行こうと提案すると彼は何か言いたげに眉を顰めたが、やがて諦めたように溜息をついて住所を告げた。
彼はゆめを変な奴だと思ったがはたから見れば彼も大概頭のおかしい奴である。非常に奇妙な二人組だった。奇妙な二人組が街を歩いていた。奇妙な光景だった。
「なんで荒木荘ってそんなにうるさいんです? 死体さん、突然奇声を発したくなるタイプの人間ですか」
「そんな人間ではないしオレの名前は死体ではない」
「そうなんですか。じゃあ騒がしいのは他の住人さんですかね。ちなみにあなた、お名前は」
「……ディアボロだ。おまえは」
「あたしですか。ゆめです」
彼は何を気にしているのか、周りを非常に警戒しながら歩く。ゆめが訊くと彼は「いつ死ぬかわからないからな」などと言ったが果たして一日にそう何度も命を奪われるものなのだろうか。死んだ経験のないゆめには分からなかったのでとりあえず「そうですね」と返した。そんなゆめにディアボロは大きく顔を歪めて溜息を零した。
「……オレはいつから、こんなに零落してしまったんだ」
「もともとすごい人だったんですか」
「当然だ。オレは帝王───いや、ただの一般人に言うべきことでは……」
「もうすごい人じゃあないんだし、言っちゃっていいですよ」
「初対面とは思えん物言いだな貴様。オレはこれでも──ギャングのボスだぞ。元、ということにはなるが」
「すごいっていうかまあ、ある意味とんでもないですね。犯罪集団ですか」
ゆめは大きく声を上げて笑うことなどは無かったが、常によくわからない笑みを貼り付けていた。作ったような笑顔ではなかったが、好感が持てる爽やかな笑みというわけでもない。こいつもしかすると仕事を首になったのも恋人に振られたのも自業自得なんじゃあないかとディアボロは考える。火事に関してはご愁傷様というほかに何も言えないが。
「……ここですよね、荒木荘」
「ああ。無事に着いたしおまえはもう帰っていいぞ」
「帰る家ないですけどね」
「…………おまえ」
これは、これは「じゃあうちに来い」的な発言をしなければならないパターンなのだろうか。冷や汗がディアボロの額を滑り落ちる。
彼女がもしうちに住むと言い出したらどうしよう。ディアボロは考える。初対面の相手に嫌いだの何だのといった感情は持ち合わせていないがしかしこいつは駄目だろう。駄目だ。理由は思い当たらないがとにかく駄目だ。
いや、理由ならいくらでもある。彼女はきっとスタンド使いではないからこんな家で生活はできないし───いや、彼女ならできそうだ。しかし人外もいる───彼女にとってそれは何か問題になるのだろうか。とはいえ一般人を連れ込むというのは───本当にこいつは一般人なのか。
「────ええい、知らん、知らんぞッ! 何だっていい、とにかく認めんッ!」
「どうしたんですか急に」
「……すまん、独り言だ」
「ダイナミックな独り言ですね。びっくりします」
ゆめが、小さくふふ、と笑った。相も変わらず、何とも言えない微妙な笑いだった。
面倒臭そうに、ディアボロはゆめを見つめる。ほんの少し、悩む。そのまま三秒ほど経って、色々と諦めて思い切り顔を顰め嘆息すると、そのまま扉へ向かって歩いた。
「……無事に死なず家に着いてよかったですね。それじゃ、さようならディアボロさん」
「……おい」
ディアボロが振り返った。
「なんですか」
「来るなら来い」
頼んでないですけど、と言おうとしてゆめはそのまま口を閉じる。
これはチャンスなのか。あわよくば今日一晩はまともに人間らしい寝床を確保できるチャンスなのか。彼は非常に面倒臭そうに顔を歪めているが、しかし彼の方から「来い」と言ったのだから文句を言われる筋合いはないだろう。きっと。
ぐるぐると頭の中でそんなことを考えて、とりあえず愛想よく笑ってみた。
「ああ……はい。お邪魔しましょう」
────やっぱり来るのか。こいつ。ディアボロはまたも顔を顰めた。