あまのじゃく

彼は今日も帰らないらしい。
彼の仕事先に居る人間のうち数人は私も面識があるし、例えばブラックモアさん辺りに「今すぐ父に仕事をさせて下さい」なんて適当に連絡して連れ帰らせることもきっと出来なくはないのだろうが、生憎この家は私も使わない部屋がいくつかあり、彼が泊まるには充分すぎるほどだ。何度も言うように、一般的な家族の住むサイズの住宅は一人暮らしにはやや広すぎるのだ。

「……大統領、そろそろシャワーを浴びてきてはいかがですか」

「お前もまだではないか」

「お先にどうぞ」

彼は読んでいた本を閉じ、視線をこちらへ寄越す。
人と視線を合わせるのは苦手ではないが、彼の場合は別だ。家にいるだけでも緊張するというのに会話を交わせば一層気が張り詰めるし、目を合わせるのは何よりも苦手だ。昔はそんなことはなかった……ような記憶がある、けれど。

「一緒に入るか」

「ご冗談を。犯罪でしょう」

軽蔑の眼差しで見つめると彼は苦笑して肩をすくめ、部屋を出ていった。
パタン、と扉の閉じる音でやっと気が抜けるような気がして、ふっと息をついた。
そういえば彼は普段あちらで生活しているわけだし、この家のシャワールームを狭く感じることは無いのだろうかと思ったところで再び扉が開く。

「結芽、タオルはどこに置いてある」

「ッ、パ────大統領!突然扉を開けないでください!脱衣場の棚、三段目です!」

気を緩めていたところへ突然出てこられるのは非常に心臓に悪い。思わず素が出るところだったが、予想に反して彼は別段気にした風でもなくただ「ありがとう」と言って去って行く。またからかうように笑うんじゃないかとか、わざと指摘してくるんじゃないかとか、一瞬でそんな考えばかりが過ぎって焦っていたために拍子抜けしてしまう。
なんでこんなに腑に落ちないんだろうかと思うともやもやして落ち着かない。自分がどうしたいのか分からない。
いつもいつも、溜息をつきたいのは彼ばかりじゃあなくて私の方だ。なんて、心の中で悪態をついてみたりする。
彼と同じ部屋に居ると息が詰まりそうになるが、違う部屋に居るのだと思うとそれはそれでなんだかそわそわする。やはり落ち着けない。これまでのニ年半の方がよほど静かに心穏やかに暮らせていたと思う。
彼が嫌いなわけではないのだ。
親がうるさいと嫌がるクラスメイトたちのように、彼を鬱陶しいと思うこともないのだ。
幼い頃から育ててくれていることに感謝しているし、尊敬もしているし、親としてとても好いている。と思う。
私には親という感覚が分からないが、本で読む家族の姿が、テレビで見る一般的な家庭が、私達二人と違っていることは分かる。
全てはきっと私の方に原因があるのであって、彼は何も悪くなんかない。世間の父親は知らないが、私にとっては良い父親だ。
もっとちゃんと、彼の望むように本当に娘のように振る舞えたら。しかし接し方が分からない。
二年半は短いものだが、父と娘の距離感を忘れてしまうには充分だった。

ふと、控えめなノックの音が耳に届いた。
ああ、さっき怒ったから気を遣っているんだな、なんて少し申し訳なく思いつつも「どうぞ」と短く応える。

「久々の我が家の風呂は良いものだな」

「そうですか。あなたの家はあちらですけど」

「ホワイトハウスなんてものは仕事場と言って間違いはないくらいだろう。落ち着くのはやはりここだ」

平然とそう答えソファに腰掛ける彼をちらりと見てから、本に目線を落とす。
あなたが落ち着いても私は落ち着けないんですよ、とまでは言えなかった。

「何の本を読んでいる」

「日本のものですよ。日本語はまだあまり分かりませんけど」

本をめくる。こうして本を開くのは会話を避けるための意思表示のつもりでもあったのだが、彼は平気で言葉を投げかけてくる。
気まずい沈黙が嫌だから本で誤魔化していたのに、これでは意味もない気がする。そっと閉じて、机の上の小さな本棚に戻した。

「……晩御飯は、どうなさいますか。作りますけど」

「材料はあるのか」

「二人分はありません……あなたがまだあちらに帰らないとは、思っていなかったので」

嫌味ばかり言っている自覚はある。しかし「すまないな」と謝られてしまってはこちらも困るのだ。
彼は分かっていてやっているのではないかと思う。たぶんわざとそうやって、私を困らせているのだ。

「買いに行くか」

「私が行きますよ。大統領が店に居たら周りも大騒ぎです。普段だって、その係の者に任せるでしょう」

「昔はお前もわたしと買い物に行っただろう」

「覚えてませんが」

ふむ、と彼は顎に手をあて考えるようなポーズをとる。どんなに考えたところで一緒に買い物に行くことは出来ないと思うけれど。

「変装をするか」

「何言ってるんですか」

「変装をして────ここからかなり遠い地で買い物をすれば、万が一見つかってもお前が噂の的にされることはあるまい」

「……どんなに遠くでも見つかればメディアが取り上げますよ」

「前にも言ったがお前が見つからないためにわたしはメディアにだって圧力をかけている。心配はいらない」

「……そこまで大仰にして買い物するのも、変ですよ」

彼は不満気に眉根を寄せた。
気持ちは分からないでもないが、彼の感覚はずれていると思う。メディアに取り上げられなくとも、噂の広がりは早いというのに。

「……もう、いいですから。行ってきますね」

「……ああ、分かった。行ってらっしゃい結芽」

あんなに必死だったくせに実際私一人で行こうとすればあっさりと引くんだな、なんて馬鹿なことを考えている自分に気付いて、私は大きく溜息をついた。