I’m in seventh heaven.

 連れて来られたのは、大きな城のような、お屋敷のようなところだった。しかし、”豪華絢爛”というよりも、”おぞましい”という形容がよく似合う。べつに、おどろおどろしい趣味の悪い調度品にまみれているとか、そういうわけじゃあない。ただ、薄暗くて、気味が悪くて、まるで影という影に何かが潜んでいるような、そういう恐怖に身を包まれていた。あるいは、私が怯えているから、そういうふうに感じるだけなのかもしれない。なにしろ、随分と手荒にここへ連行されたのだ。髪の長い、筋肉質な男に捕らえられて。抵抗する私を面倒そうに眺めた彼は、しかし私の抵抗なんてまるで意味をなさないとでも言いたげに、いとも簡単に動きを封じた。
 その時に、私は悟ったのだ。彼は私を殺しはしない。殺すのが目的なら、これだけの力がある彼なら、今すぐにでも殺すだろう。どこかへ連れて行く気だ。それなら、その時に、隙を見て逃げ出そう。
 無抵抗になった私を、男はこの館へ連れて来た。薄暗い廊下を進んで行く。灯りがついていないわけじゃあないのに、なんだってこう薄暗いのだろう。カツン、と足音が鈍く響くたびに、身が竦みそうになる。これから私は、どうなってしまうのだろう。逃げる隙なんて無かった。それどころか、このガクガクと震える脚で、力の入らない腕で、どうやって逃げるというのだろう。もはや私には、せめて殺されないよう祈りながらこの男に従うしか、選択肢が残されていないようだった。
 男は一つの扉の前で足を止めた。大きな手が、控えめにノックする。低い声が、「持って参りました」と、扉の向こうへ呼び掛けた。”持って”などと、物のような扱いに思わず眉を寄せる。しかし、逆らえるほどの勇気も力も、私にはない。

「――入れ」

 返ってきたその声に、背筋がぞくりとした。恐怖なのか、何か別の感情なのか、分からない。けれど――奇妙なことに――私はその声を”美しい”と感じた。うっとりと耳を傾けて聞いていたくなるような、そんな声だ。そして同時に、そんな感情を抱いてしまう自分に、焦りのような恐怖をも感じた。こんな時に、私に危害を加えようという者の声に聞き惚れているなんて、絶対に普通じゃあない。それが理性で分かっているのに、抗えない魅力を感じてしまうことが、今は何より恐ろしかった。

「失礼します」

 私を連れて来た男が、ゆっくりと扉を開く。扉の向こう側は、どうやらベッドルームらしかった。大きな館に似つかわしい、質の良く広いベッドが、部屋に陣取っている。いや、そんなことよりも、ベッドの上だ。男が寝そべっている。見たところかなりの長身で、ぞっとするほど端正な顔立ちをしている。顔立ちどころか、何も身に着けていない上半身すらもひどく美しく見えて、思わず目を逸らした。

「御苦労だった、ヴァニラ。もう下がれ」

 ”あの声”が、私の前に立つ男に呼び掛ける。男は「は」とだけ声を発して、一礼した。私だけ――私と、ベッドの上の男を部屋に残して、扉が閉められる。

「――さて。なあ、君」

 声が、美しい声が、私を呼ぶ。ガクガクと、全身が震えているのが、自分で分かる。呼吸が浅い。半ば無意識に、半歩後ろへ下がる。扉に後頭部がぶつかる鈍い音がしても、私の頭は冷静になってはくれなかった。
 男が、喉を鳴らして小さく笑った。

「随分と怯えているようだ」
「……ぁ、……」
「そんなに怖がらなくていい。わたしと話でもしようじゃあないか」

 こんなにも怖くて堪らないのに、どうしてだろうか。彼の声はやはり、ひどく甘美な響きを伴って、私の耳に届いた。「おいで」と、優しく微笑って、彼が手招く。何も言えないまま、私は一歩を踏み出していた。私が向かってくることに満足したように口元の笑みを深めた彼を見て、また一歩、歩みを進めてしまう。彼に近づきたいという気持ちが芽生えていることに気付いて、どきりとした。頭の中で、本能が警鐘を鳴らす。惑わされている場合じゃあない。そもそも私は、”誘拐”されてきたのだ。

「わ、私――……」

 勇気を振り絞って何かを言おうとしたのに、それは叶わなかった。すっかり手の届く距離まで来てしまった私の右手を、あの男の手がすくい上げる。彼の親指が私の手の甲をそっと滑る感触に、思わず小さく悲鳴を上げた。気分を良くしたように、彼は口角を吊り上げる。彼の手はそのままするりと私の肌を滑って上がり、二の腕を掴んだ。男のもう一方の手が伸びてくる。それは私の頬へ優しく添えられた。いつの間にか、寝そべっていたはずの男は身を起こしていて、すぐそばにあの端正な顔があった。視線が交わって、息が詰まる。”吸い込まれそうな瞳”と言うけれど、比喩ではなく本当に何もかもを吸い取られてしまうんじゃあないかと、不安になった。その長いまつげが伏せられて、愉快そうに男が笑う。私の心臓がばくばくと音を立てるのが、まるで警鐘のように聞こえる。男が近づくほどに、その音が大きくなっている気さえした。この男は危険だ。頭では分かっている。でも。

「まッ、待って、ください……」

 私のどこにこんな勇気があったのだろう。触れてしまいそうだった唇の前を遮るように手をかざして、震える声を振り絞っていた。虚を付かれたように、男が一つまばたきをする。それから、一層愉快そうに、美しく笑った。

「どうした? わたしに触れられるのは嫌か?」
「い、いいえ。そうではなくて――……」

 否定の言葉を告げた自分に驚いた。嫌ではなかった。彼に触れられること、それ自体に嫌悪感があるのではない。恐ろしいことは確かだが、そうではないのだ。例えこれから、殺されるのだとしても。
 ただ、私は、せめてこの男のことを、少しでいいから知りたかった。

「あなたの名は、何と言うのですか?」

 震える声が室内に響く。男は表情を消して、僅かに沈黙した。急に恐ろしさがぶり返して、手の震えが大きくなる。彼は名など名乗らずに、このまま私を殺してしまうだろうか。

「――娘。お前の名は」

 予想に反して、彼は私を手にかけることはしなかった。ただ、名前を問うその声色は、どこか先程までと違う気がした。優しく語りかけるものから、尊大な響きを伴うものに変わっている。そういえば、”君”と呼んでいたのが、今は”お前”と呼んだ。彼は怒っているのかもしれない。私は身を縮こまらせながらも、ただ質問に答える。

「……ナマエ。ナマエと、いいます」

 男はフゥムと唸って、それからまた微笑った。先程の、あの優しい微笑みじゃあない。満足げに、不敵に、笑っていた。

「わたしの名が知りたいか?」

 躊躇いがちに、けれどはっきりと頷く。男が、ふ、と顔を歪めて笑ったように思う。

「これから死ぬのだとしても?」
「……ええ」

 恐ろしさを抑え付けて、彼の瞳を見た。彼はきっと私を殺すのだろうが、今この瞬間、確かに私の話を聞いている。その甘美な事実が、恐ろしさを上回って私に勇気をもたらした。恐怖による心拍が起こした脳の錯覚かもしれないが、私はこの男に惹かれてしまっている。それは既に、認めざるを得ない事実だった。

「私がこれから死ぬのなら、尚更。あなたの名前を覚えていたい。天国で何度も反芻するための、せめてもの土産にしたいのです」

 そう告げると、彼はまた笑った。今までで一番可笑しそうな、声すら伴う笑いだった。「天国、天国か」と呟くように言って、更に笑う。どうやらそのワードがお気に召したらしい。

「ナマエといったか」
「は、はい」
「お前は天国へ行くというのだな」

 その言葉は、私を嘲笑するものと、一瞬思った。天国へ行けることを信じて疑わない私の自惚れを馬鹿にしているのだと。けれど違った。”天国へ行く”という言葉に、なにか切実な、焦がれるような響きを感じて、言葉を失う。この人は天国を望んでいるのだ。求めているのだ。簡単に人を殺してしまえるくせに、天国という幸せを。

「わたしの名も、そこへ連れて行ってくれると?」

 はっとして、頷く。「ええ、必ず」と言葉でも誓った。彼は満足げに目を伏せる。そして、遠くを見るように、視線を外した。

「わたしは必ず天国へ行く。名だけではない、わたし自身がそこへ到達するのだ。しかし――」

 言葉を切って、彼はまた私を見た。呆然とする私を。彼の長い人差し指が、私の顎をすくい上げる。覗き込むような瞳と、視線が交差した。

「…………」
「しかし、わたしの名を先に持って行かせるのも、悪くはないな。それを道しるべに、辿っていこう」

 こんなにも恐ろしく、存在感のある彼なのに、奇妙な儚さのようなものを感じて、愛おしくなった。彼はきっと、天国へ行けるような人じゃあないだろう。それでも彼は、天国へ行きたいのだ。それはつまり、間接的にだが、彼は幸せを求めているのだろう。プライドの高そうなこの男は、「幸せになりたい」とは決して言わない。でも、天国へ行きたくて、彼なりにもがき、道を探している。
 私はその道しるべになれるのか。彼の行き先を照らすものに。

「――DIOだ。わたしの名は、DIOという」
「DIO……。DIO、様」

 口の中で繰り返す。DIO。DIO様。”神”を表すその名前。私はこの名前を胸に抱いて死ぬのだ。天国へ連れて行く。
 おかしなことだ。私はこの人に殺されるのに、この人を天国へ導こうとしている。けれど、不思議なくらいに、私の心は幸福に包まれていた。
 彼の、DIO様の手が、もう一度私の方へ伸びる。頬に添えられた左手の、その親指が、ゆっくりと私の唇をなぞった。背筋が震える。これは恐怖だろうか。

「わたしの名を呼べ、ナマエ。天国へ向かう道中で、忘れてしまわないように」

 掠れる声で、DIO様と、彼の名前を呼んだ。魂に刻みつけなくてはならない。大切に抱き締めて、私はこのまま天国へ行くのだ。
 頬に添えられているのとは反対の、もう一方の手が、そっと私の腰へ回る。これから私を殺すのだとは思えないくらいに、優しい力で、腰を抱かれている。DIO様。もう一度、名前を呼ぶ。今この時、それ以外の言葉は、何も意味をなさないような気さえした。薄く笑った彼の唇が、私のそれと重なる。DIO様。心の中で、何度も何度も、名前を呼んだ。

「……お前の血を戴こう。天国へ行く女の血を飲めば、わたしも天国へ行けるだろうか」

 唇を離した彼は、まるで独り言のようにそう呟いた。そんなことは馬鹿げている。本当は分かっていた。人の血を飲んだりなんかして、天国へ行けるわけがない。人を殺した者を、天国は受け入れないだろう。だけど、私は信じたかった。この男が天国へ行けるように。天国で待つ私という道しるべを、見つけてくれるように。
 恐る恐る、彼の背中に手を回す。滑らかなその肌は、まるで生きていないように冷たかった。けれど、私の胸元には、確かな彼の息遣いを感じる。首筋にキスが落とされた。DIO様。DIO様。
 突然ぐいと手を引かれて、思わずベッドサイドに膝を付いた。その勢いのまま、気が付いたら彼に組み敷かれていた。心臓がおかしくなってしまったのかもしれない。静寂の中、私の脈の音ばかりが耳に届いた。

「DIOさま……」
「わたしが欲しいか?」

 甘美な声が耳元で低く囁いたが、何も答えられなかった。いや、違う。私は、少なくとも、彼が欲しいわけではない。「いいえ」と呟くと、彼は意外そうにこちらを見る。

「私は、あなたが欲しいのではなくて、私の全てをあげるのです」

 血でも、命でも、何でもいい。全てを差し出すつもりで、私は今、彼に組み敷かれているのだ。それで良い。私はその代わりに、彼の名とともに、天国へ向かうのだ。天国で彼を待っていられる。彼の道を照らすことができる。
 それは私にとって、至上の幸福seventh heavenだった。
 満足げに微笑う彼が、また私に口付ける。ふいに、唇を塞がれているというだけではない苦しさを感じた。血を吸われているのだ。貪るようなキスを繰り返しながら、この血をも吸い尽くそうとしている。それはまるで、”全て”を差し出した私に、彼が応えているかのようだった。
 意識が遠のいてゆく。DIO様。DIO様。忘れないよう、刻み付けるよう、何度も名前を呼んだ。天国へ行くのだ。私と、DIO様は、天国へ行く。薄くなる意識の中、彼が優しく私の名を呼んだような気がした。

2022.10.14